法廷日記

浦部孝法の日記です。時事問題、法律問題に関して適当に書いています。

僕らは法律を勉強しなくてもよいかもしれない

法律を勉強すれば実生活で損をするようなことは少なくなるし、ちょっとした場で知ったかぶりをすることができる。エキスパートになってしまえば、そこそこ高い給料も貰える。少し時間はかかるかもしれないが法律を勉強することで損するようなことはない。

しかし、最近は一般人がはたして法律をガリガリ勉強する必要が本当にあるのかと思うようになった。

というのも、多数決の民主主義で作られる法律というものは意外とよくできており、それほど僕らの通常の感覚から外れるような理不尽な結果をもたらすことは多くない。仮に個々の条文通りに解決したら理不尽になる場合でも、権利濫用だ信義則だといった一般条項で修正されることもある。

むしろ僕らが法律に関して理不尽だと感じる場面というのは、個々の法律の条文というよりは、個々の事実の立証の場面である。

セクハラやパワハラを受けたら被害者は加害者に損害賠償を請求できる。しかし、セクハラやパワハラを受けた事実は、被害者が立証しなければならず、裁判所にその事実を認定してもらえなければ損害賠償請求は認められない。

残業をすれば、労働者は会社に残業代を請求できる。しかし、残業した事実は労働者が立証しなければならず、裁判所にその事実を認定してもらえなければ残業代の請求は認められない。

妻が不倫をすれば離婚をすることができる。しかし、妻の不貞行為の立証責任は夫にあり、裁判所にその事実を認定してもらえなければ離婚請求は認められない。

実際に被害を受けた、やるべきことをやった。そうであるにもかかわらず、裁判でそのことを立証できなければ請求は認められない。僕らが司法に理不尽さや無念さを感じるのは主にこの場面である。当事者としては現実に被害を受けているのに立証ができなければ被害は救済されないのである。

そうすると、僕らが勉強すべきなのは法律ではないのではないか。僕らが勉強すべきなのは立証技術だろう。

法律自体は、僕らが社会に溶け込んでまっとうな感覚を身に付けていたらそうそう外れることはない。しかし、立証というのは意識的に事実を記録化しない限り誰かが自動でやってくれるものではない。

さいわい現代社会では携帯電話一つで録音も映像も残せる時代だ。立証のための証拠を作る環境は10年前に比べはるかに整っている。一般人にとって、日々のライフログをとることはいざというときの有力な証拠となる。

僕らは法律ではなく、立証技術を学ぶべきであろう。