法廷日記

浦部孝法の日記です。時事問題、法律問題に関して適当に書いています。

原因論と責任論の区別

原因があるということと、責任があるということは似て非なるものである。

原因とは、ある結果を引き起こすもとになるもので、責任とは、引き起こされた結果に対して負うべき責めである。

原因があることと責任があることは、重なりあうことが多いため、しばしば両者は混同して論じられる。

しかし、原因はあるが、責任はないという状況も数多くある。

例えば、太っている体型を理由にいじめられている子がいたとした場合、いじめの原因はその子が太っていることであるが、その子にいじめの責任があるわけではない。太っていることを理由にいじめていいことにはならないからだ。もっとも、その子が太っていることがいじめのきっかけであるなら、その子に原因はある(いうまでもないが原因は一つではない。)。

このように原因が認められる範囲は、責任が認められる範囲よりもはるかに広い。極端なことをいえば、存在そのものが原因ともいえてしまう。

この原因論と責任論の区別がついていない人はかなり多く、原因の存在を指摘することが炎上案件となることもある。

例えば、若い女性が治安の悪い地域の夜道を一人で歩いていて、性犯罪の被害にあった事例があったとする。

この場合は、若い女性が治安の悪い地域の夜道を一人で歩いていたことは被害の原因の一つとなりうるが、当然、被害の責任は女性にはない。

ここで「夜道を一人で歩いていなかったら被害にはあわなかっただろうに。」的なことを言うと、炎上案件になりうる。この発言は、夜道を一人で歩いていたことが被害の原因の一つであっただろうということを指摘するものに過ぎないが、聞く人によっては、あたかも被害女性に問題(すなわち責任)があったかのように聞こえてしまうからだ。

そのため、炎上を避けたいのならば被害者側の原因論については口を閉ざすのが正しい。さきほどの太った子どもの例でも、「太っていなかったらいじめはなかったかもしれない。」などとは言ってはいけない。

しかし、このような対応がはたして正しいのだろうか。

被害者側の原因について目を閉ざすのは、今後の被害の予防、改善等の道を閉ざすことにもつながるおそれがある。

太っていることがいじめの原因であるならば、「太った子どもをいじめるな」と他人をコントロールしようとするより、やせてしまった方が手っ取り早い。性犯罪をこの世からなくすよりも、自分が被害に遭わないよう、夜道は一人で歩かないなどの予防策をとって少しでも被害の確率を下げる方が簡単である。

もちろん、結果に対する原因というのは一つではなく複雑な要素がからまっているものであり、やせたからといっていじめられないとは限らないし、どんなに注意していても性犯罪の被害に遭うときはある。また、わざわざ被害者に相手に被害者側の原因を言及する必要もない。

しかし、原因論と責任論を混同し、原因について客観的な分析ができなくなってしまっては、結局誰も得をしないのである。