法廷日記

浦部孝法の日記です。時事問題、法律問題に関して適当に書いています。

弱者の側に付くって大変だし全然美しいものではないという話

今の時期はちょうど、司法修習という弁護士になるための研修期間が終わって新人弁護士が誕生し、また、新しく司法修習生になる人たちが出てくる時期です。そういった人たちが集まるところに行くと、聞きたい聞きたくないにかかわらず、弁護士を目指した志望動機なるものを聞かせてもらえることになります。

そういった中で、よく聞くフレーズが「弱者の力になりたい。」というものです。「弱きを助け強きを挫く。」というのは、昔からの美談であり、ヒーローの象徴みたいなものです。そのため、とりあえずそう言っておけば周りの受けもいいし、本気でそう思っている人も多いでしょう。どっちかというとお金や社会的地位のために法曹を目指した僕は共感しませんが、そういう強い動機をもって弁護士になった人が多いのは事実でしょう。弁護士は儲からないと叫ばれている昨今では、そういったボランティア精神に溢れる人はむしろ増えているのかもしれません。今時金目当ての人は弁護士を目指さないですからね。

金目当てだった僕ですが、まあそれなりには弱者の側に付くようなボランティア活動とかはしてきました。平均的な日本人よりは、はるかにお金も労力も投入してきたと思います。そこで、少し弱者救済の現実というものについて語ってみましょう。

まず、そもそも「弱者」とはなんなのでしょう。その定義はいろいろあるでしょうが、ここでは誰もがイメージしやすい経済的弱者を念頭においてみます。個人資産がない、自分で稼ぐ力もない、頼れる人もいないとった人たちですね。

彼らの特徴は概ねこんな感じではないでしょうか。

  • 親からまともな教育を受けていない、当然低学歴
  • 約束を守るなどの基本的なことができない
  • 目先の利益に飛びついてしまい、大局的にものごとをみることができない、すぐにばれる嘘をつく
  • 他人を信用できない
  • 相手の立場を考慮できない、自己中心的

彼らはまっとうな教育を受けていないため良い仕事に就くことができません。せっかく見つけた職に就いても、約束を守るなどの基本的なことができないので、すぐにクビになってしまうか重要なポジションに就かせてもらえません。また、計画的にものごとを考えることができないので、酒やタバコ、ギャンブルなどの一時の娯楽に金を使ってしまい、貯金や自己投資にお金を使うことができません。ひどい場合は高金利の借金をしてしまいます。基本的に他人を信用することができないので、なにげないことにも余分なコストがかかります。ときおり現れる助けてくれる人も、次第に彼らの自己中心的考えに愛想を尽かして離れて行ってしまいます。

弱者救済を目指しているけど実際にそれらに関わったことのない人たちは、弱者を何か純真無垢で美しいものであるかのように捉えているところがあります。しかし、現実はこんなもんです。

その人のためにやる打ち合わせであっても、平気で連絡なしにすっぽかされます。こちらの都合など考えず、無茶苦茶な要求をされるのは当たり前です。非難されることは多かれど、感謝をされるのは稀です。金なんか一銭も貰っていなくても、自分達で金儲けしようとしているんじゃないかと疑いの目を向けられます。最初は、弱者救済を志した人たちも、こういった理想と現実のギャップに耐え切れず徐々に活動から離れて行ってしまいます。それでも無理に続ける人の中には精神的に病んでしまう人もいます。当然金にはならないので付き合わされる家族や従業員からもいい目では見られません。

一方強者と呼ばれる人たちは、弱者とは正反対の性質の人たちです。約束は守れるし、こちらの立場にも配慮してくれて、信用して仕事も任せてくれます。相応のサービスを提供すれば、お金もきちんと払ってくれます。強者はときおり悪になぞらえられることがありますが、実態は全く逆でしょう。彼らは約束を守るなどの基本的なことができてきたからこそ強者の立場に居られるのです。逆に、困った弱者に苦しめられている強者の方が多いのが現実ではないでしょうか。個人的にしろ、ビジネスにしろ、付き合うなら圧倒的に強者の人たちの方が居心地がよいはずです。

弱者救済に本気で手を出すには、こういった現実と向き合わなければなりません。よっぽど心が広く慈愛に満ちた人か、そういうものだと割り切れるドライな人でない限り、不用意に手を出すと精神を病みかねません。

弱者の側に付くというのは、思っているよりも大変だし泥臭いものなのです。