駅のホームから線路に落ちた人を助けたなんて美談がときときあります。助けに行ける人ってのは本当にすごいと思いますが、僕がそのような事態に遭遇したらまず助けません。
どこぞの誰ともわからない他人のために自分の命はかけられないからです。線路に落ちた人が家族なら助けると思いますが、それは自分にとっては命をかけるに値する対象だからでしょう。
自分が犠牲になれる範囲はどこまでかという線引きは結構重要だと思います。
日垣隆氏の著書にもこんな記述がありました。
どこまでの関係性の人を自分はどこまで守れるのか。人間関係の距離によって、自分が犠牲になれる度合いも変わってきます。厳しい問いですが、この範囲を決めておかないと、本当に大変なことが起きたとき、役に立ちません。
引用元:日垣隆著「ラクをしないと成果は出ない」(だいわ文庫)
弁護士ってもともと人助けがしたい人や、お人よしな人が多いせいか、この境界線があいまいな人が多いと思います。そのせいで、ズルズル自己犠牲をしていって金欠や病気になったり、家族に迷惑かけているんじゃないかという人をよくみかけます。自己犠牲というのはある意味麻薬的な要素もあって、一種の快感のようなものが得られることも影響していると思います。
僕も、一応弁護士という公益的な職業についているので、無償で自己犠牲的な仕事をすることはあり、それについてやりがいも感じます。それでも、どこまで犠牲を払うかは一応決めていて、やらないと決めていることは徹底的にやりません。そうでもしないと、自己犠牲の麻薬にはまってしまい精神的にやられてしまうか、身近な誰かにしわ寄せがいってしまいます。
誰をどこまで助けて、どこからは助けないかは、暇なときにでもちょっと考えてみると仕事観とかが変わってくるかもしれませんね。